主の御言葉
「神への質問と神からの回答」
(私たちの主からスーザンに賜った御言葉 2014年3月9日)
スーザンの質問: この終わりの時代にキリスト者がどのように過ごすことを望まれますか。
主の回答:
一日を通してわたしを追い求めて欲しい。これがわたしがわたしの子どもたちに望む過ごし方です。わたしは彼らに一日を通して悔い改めて欲しいのです。そうすれば、彼らはその衣を清く保つことができるのです。悔い改めが鍵です。わたしの子どもたちはその救いをわたしに求めなければなりません。わたしの救いを通して以外に、人が救われる道はないのです。わたしは彼らに一日中わたしと語ってほしいのです。わたしは一日を通じて彼らを導きたいと望んでおり、これを実現させるために、わたしは彼らとの個人的で親密な関係を求めます。彼らが一日のうちの静かな時間にわたしを慕い求めなければ、このことは起こりません。あなたが本当にわたしのために時間をとりたいなら、あなたはそうするでしょう。わたしを慕い求める子どもたちが、わたしが祝福する者たちなのです。神を慕い求めることには祝福があるのです。
詩篇 第24章3節から4節 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
ヤコブの手紙 第4章7節から10節 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
ヘブル人への手紙 第10章22節 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
イザヤ書 第1章16節 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
ヨハネの黙示録 第3章19節 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
ヨハネによる福音書 第14章6節 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
歴代誌 第二 第15章2節 そこで、彼はアサの前に出て行き、彼に言った。「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。
スーザンの質問: 人は、この闇の時代に、迷える家族や友人のためにどう祈るべきでしょうか。
主の回答:
子どもたちは次のように祈るべきです。わたしは、彼らの迷える家族や友人たちを救うための答えがわたしにはすべてあると、彼らに心の中で信じて、真剣な気持ちでわたしのもとに来て欲しいと望んでいます。あなたの家族や友人に関する最大の心配ごとをわたしに打ち明けなさい。あなたが苦悩している領域についてわたしに本心から語り、その重荷をわたしに預けなさい。あなたの家族が救われる道はわたしだけであると、あなたがいかに心の底から信じているかをわたしに告げなさい。迷ってしまっているあなたの愛する人たちのことであなたが感じている辛さや痛みについて、頻繁にわたしに話しなさい。毎日、必要であれば毎時間でも、それをわたしの足もとに持って来なさい。わたしは年中無休の神です。わたしは決して眠りません。わたしはいつも起きていて、あなたとあなたの家族のことを見守っています。わたしの回答は必ずしもあなたが聞きたいと思っていることや、あなたの目的に叶うものではないかもしれません。けれど、わたしは聖なる神であり、わたしはすべてを見て、すべてを知り、あなたとあなたの家族にとって結局は何が最善であるかを知っています。わたしには先を見ることができ、わたしは一人一人に必要なものが何かを知っています。彼らがわたしのもとに来て、わたしの力ある肩に頭をもたせかけさえすれば、彼らは問題を抱えた世界に解決法を見いだすことでしょう。わたしが願うことはこれです。わたしの子どもたちが隠れた場所で今わたしを慕い求め、彼らの唯一の希望として、彼らが一番望むものとして、わたしを知るようになることです。わたしは人の霊の必要を全て満たすことができます。すべての必要はわたしを通して満たされうるのです。わたしは、彼らの愛する人たちの救いも含めて、人の願望に対するすべての答えを持っています。
エレミヤ書 第7章23節 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』
詩篇 第91章1節 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
スーザンの質問: この世はだんだんと暗い場所になってきています。人は、確実にあなたと正しい関係にあるようにするために何ができますか。
主の回答:
わたしが謙遜な愛の神であることと、わたしが親しみやすいことを彼らに伝えなさい。彼らはわたしに繫がることができるのです。彼らがわたしに呼びかけるならば。わたしの名を呼びなさい。そうすれば彼らは救われます。わたしは清らかな長衣と清らかな衣を要求します。 彼らが頻繁に悔い改め、神と正しい関係にありたいと心から願い、純粋な動機から清らかな長衣を望んでわたしのもとに来るならば、わたしは彼らの罪を許し、わたしの言葉、わたしの書を読むことを通して、またわたしの霊で導くことによって、彼らを真理に導くことができるのです。彼らは完全に服従し、わたしを彼らのたった一人の主とし、師としようとする全き心持ちをもって、わたしのもとに来なければなりません。彼らは、将来の計画のすべても、個人的なあり方も含めて、自らをわたしに明け渡し、その人生において、わたしの権威の下にくることを本当に望まなければなりません。これは、わたしの国に入るために、また、わたしの再臨に備えるために彼らの心を用意するために必要なことなのです。彼らは毎日、いつ何どきも、その人生にわたしの主導権を求めなければなりません。そうすれば、わたしは彼らの心をきれいにし、彼らの内にわたしのかたちに用意された肉の心を置くのです。
使徒の働き 第2章21節 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。
エペソ人への手紙 第5章26節から27節 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
ヨハネの福音書 第13章14節 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
エゼキエル書 第36章26節 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
スーザンの質問: 人はあなたと正しい関係にあるかどうか、間近に迫ったあなたのご再臨のために本当に用意ができているかどうか、どのようにして知ることができるでしょうか。
主の回答:
用意ができているかどうかは、このようにして知ることができます。あなたはあなたの人生のためのわたしの完璧な意のうちにいることを望まなければなりません。たとえそれが厳密には何を意味するかが分からなくてもです。あなたはわたしの敵の意にではなく、わたしの意のうちにいたいという圧倒的な願望を持っていなくてはなりません。あなたはこの思いの変化をわたしに求めなければなりません。あなたは両腕を広げてわたしのもとに来なければなりません。思いっきり腕を広げて、それが何を意味するとしても、あなたの人生のためのわたしの完璧な意のうちに入る用意があると、わたしに告げなければなりません。 そして、日々、この意をわたしに求めなさい。毎日、心でわたしに降伏しなさい。あなたは他の何ものでもなく、わたしのものになりたいとわたしに言いなさい。敵でもこの世でもなく。あなた自身ではなく、わたしとわたしの完璧な意に完全に服従して。これが、備えられて用意ができるために、わたしがあなたから要求することです。あなたが、あなたが意図された人物へと神に変えてもらう用意のある、柔軟でしなやかな心でわたしのもとに来るならば、わたしはあなたを導きます。御霊の実を所有し、わたしのかたちに似るように、あなたの霊の更新によって、わたしが毎日あなたを聖化するにつれて完成されるまでに。わたしをあなたが毎日ともに歩くものとしなさい。わたしはそれを切望しています。わたしはまもなく来ます。わたしの手をとりなさい。来て、あなたの創造主とともに歩みなさい。もともとこのように意図されていたのです。わたしの子どもたちよ、わたしはあなたのことを待っています。ぐずぐずしてはいけません。わたしの臨在の中にいることがどんなに快いことかがあなたに分かった後では、敵と過ごす時間はすべて、あなたが後悔することになる時間なのです。
マタイの福音書 第7章21節 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
マタイの福音書 第12章50節 天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。
主の御言葉
「来て、あなたの神との永遠の関係に加わりなさい。」
(わたしたちの主からスーザンに賜った御言葉 2014年4月13日)
わたしは今あなたに手紙を与えよう。
親愛なる子どもたちよ、これはわたし、あなたの神です。わたしはこの娘を通してあなたに手紙を書いています。彼女はわたしの終わりの時の勇士です。わたしは来るのです。わたしは素早く来ます。わたしは近くに来ています。そして世界はまさに破滅を見ようとしています。
敵はあなたがたを皆、破壊したがっています。彼はあなたに対してたくらみ、計画を練りました。彼の計画はあなたを滅ぼすことです。彼は何よりも、あなたを完全に破壊したがっているのです。彼はあなたがずっと永遠に苦悩して苦しむのを見たがっているのです。
敵は人類に対して何の愛も持っていません。彼はあなた方を皆、破滅するでしょう。わたしの血で買われた救いを除いては。これが、敵の邪悪な働きに反撃するためにわたしが持っていた計画でした。敵は、その迷い出した子どもたちのために苦しみを受けようとする神を予期してはいませんでした。それは、わたしに従う者たち、彼らの救い主であるわたしを選ぶ者たちを救うために、神であるわたしがするだろうとは敵が想像するようなことではありませんでした。
これは敵にとって起こるとは思っても見なかった計画でした。わたしは、わたしの迷いだした子どもたちのために道を備えました。これはわたしが与えるもので、わたしはそれを与えました。わたしはすべてを与えました。わたしは不足なく与えました。わたしは大いに苦しみました。
敵が破壊しようと計画した多くの迷いだした魂のために、神であるわたしがそこまで自らを低めるだろうとは、敵は知らなかったのです。しかし、わたしの十字架上での働きがわたしの敵対者の邪悪な計画を破り、今日、あなたには、わたしの敵があなたのために計画した残酷な結末からの救済の道があるのです。
救われたい人を誰でも、わたしの敵の悪から逃れたがっている人を誰でも救うこと、これは人類全てのためのわたしからの贈り物でした。今、あなたは選ばなければなりません。あなたは、敵、および、あなたの人生における敵の支配からの解放という、このすばらしい祝福を受け取りますか。あなたはわたしとともに、自由への真っ直ぐで狭い道を歩きますか。
わたしは、わたしの真の教会、わたしの忠実で誠実な者たち、「キリストの花嫁」を救い出すために、まもなく戻ってきます。
彼女は魅力的で美しく、わたしをハッとさせます。彼女はわたしに息をのませます。わたしは彼女の足をさらって、彼女をこの醜い世界から運び出すことを切望しています。これがわたしの心の奥底にある願いです。わたしにはいつでも用意ができていて、わたしはわたしの父の合図を待っています。
天のすべてが、花嫁の天国への到着を待っています。あなたは来ますか。選ぶのはあなたです。今日この日に悔い改めなさい。あなたの全てをわたしに明け渡しなさい。わたしはあなたに結婚を申し込んでいるのです。来て、あなたの神との永遠の関係に加わりなさい。わたしの足もとにあなたの命を差し出しなさい。その時は今です。非常に多くの人たちが死にかけていて、すでに敵の手を経て地獄に落ちようとしています。わたしはあなたを失うために自らを低くしたのではありません。ですから、まだ時間が残っている間にわたしを選びなさい。
これらの言葉はあなたが考慮するためのものです。わたしはわたしの求婚に対するあなたの答えを待っています。アーメン。
対応する聖句:
サムエル記 第二 主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現れた。
ヨハネの福音書 第10章10節 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
マタイの福音書 第7章14節 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
コリント人への手紙 第一 第15章52節 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは帰られるのです。
雅歌 第4章9節 私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。
主の御言葉
「神への質問と神からの回答」第3部
(わたしたちの主からスーザンに賜った御言葉 2014年4月19日)
スーザンの質問: 神との日々の歩みとはどのようなものであるべきでしょうか。
主の回答:
スーザン、わたしがわたしの子どもたちに期待するのはこれです。わたしは日々、服従すること、一日を通じてわたしに注目する時間をとることを求めます。これには、決断、選択すること、わたしと過ごす時間の代わりに世俗的な探求をあきらめることが必要となります。わたしはそれにふさわしいものです。わたしはあなたを造りました。そしてわたしはあなたのために悲惨な死を遂げたのです。わたしには、わたしの花嫁を迎えに来る用意ができています。わたしは、わたしの子どもたちの忠誠を求めます。
マタイの福音書 第6章24節 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
スーザンの質問: だれがなまぬるいのでしょうか。なぜでしょうか。
主の回答:
なまぬるい教会は日々わたしを追い求めることを価値あることとは考えません。彼らは、彼らの日程に合わせて、彼らの条件どおりにわたしを求めるだけです。日々の服従は、彼らの計画とは一致しません。現在の計画にも将来の計画にもです。わたしは彼らの将来の計画には含まれていません。もしそうであったなら、彼らはわたしの意に服従しているはずですし、わたしの再臨を毎日待ち望んでいるはずです。代わりに、彼らは世にあるものごとを追い求め、人間のものごとに希望を託します。わたしの来臨のときに彼らは取り残されて悔やむことになるでしょう。
マタイの福音書 第12章50節 天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。
詩篇 第20章7節 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
イザヤ書 第31章1節 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の洗車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
イザヤ書 第36章9節 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。
スーザンの質問: 花嫁はなぜ全人口の残りのものに過ぎないのでしょうか。
主の回答:
わたしの言葉が述べるとおり、わたしの花嫁はとても狭い道を歩みます。これを信じがたいと思う人々もいますが、人の子が来るのはちょうどノアの日々のようです。洪水が来たときに見張っているところを見つけられた人々は非常に少なく、わたしが戻ってくるときに見張っているところを見つけられる人々は非常に少ないでしょう。見張っていることは提案ではありません。それは、わたしがわたしの教会を連れ出すときにあなたが取り除かれるための必須条件です。わたしが戻ってくるときにわたしの人々が見張っていないところを見つけられるなら、彼らは後に残されて、闇の世界か、それよりもっとひどい突然の破滅に直面することになります。
マタイの福音書 第7章13節から14節 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
マタイの福音書 第24章37節から39節 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての者をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
スーザンの質問:主よ、「見張っている」とはどういうことでしょうか。
主の回答:
わたしの再臨を期待して注意して見守る人、これが「見張っている」ことのわたしの定義です。彼らの主であり救い主であるわたしをじっと見つめている人のことです。わたしの言葉を読み、絶えずわたしを慕い求め、わたしの言葉が世界で起こっていることといかに一致してるかを見る人です。神の導きをわたしの霊に求める人たちは、彼らの生きている時刻を知るでしょう。彼らには用意ができて、そのともしびは十分に灯されているでしょう。これらがわたしの用意のできた子どもたち、わたしの教会、わたしの花嫁なのです。
テサロニケ人への手紙 第一 第5章1節から6節 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
付録:
私(スーザン)の要請でドナ・マクドナルドさんがこれらの質問について祈りましたが、彼女もまた主からこのことを聞きました。: わたしはこれらの言葉について祈りました。以下は上記の質問について主が語られることです。
Q1: 日々、服従することについて。それは単純なことです。あなたがわたしが言う通りにするなら、あなたは永遠にわたしといることになります。あなたがそうしないなら、そうなりません。あなたは永遠の地獄に定められます。それはあなたの選択です。あなたが決めるのです。アーメン。
Q2: なまぬるい教会はわたしを彼らの時間表に書き入れます。(携挙される)わたしの花嫁は、わたしの時間表を彼らの最優先事項にします。花嫁は携挙されます。なまぬるい教会はされません。あなたが決めるのです。アーメン。
Q3: なまぬるい者たちはスケートを履いて急速に下り坂を降りていっています。自分たちがどこに向かっているのか気をつけて見ていません。わたしの花嫁は携挙されます。彼らはわたしと手をつないで非常に狭い道を歩んでいます。 なまぬるい者たちは後に残されて、彼らには拷問や処刑、あるいはもっとひどい突然の死や地獄が待っています。どこに行きたいかはあなたが決めるのです。アーメン。
Q4: わたしの花嫁は双眼鏡や顕微鏡、また望遠鏡を使ってわたしの再臨を見張っています。彼女はあらゆる機会にいたるところでわたしを追い求めます。なまぬるい教会は気にもかけず、彼らはその関心の欠如に対して、その付けを大きく払うことになります。アーメン。
これがわたしの娘、スーザン・デイヴィスに与えられたこれらの言葉についてのわたしの説明の結論です。 娘たちよ、あなたの神へのこのひと組の質問の確証として、これを公開しなさい。
(主によってドナ・マクドナルドに授けられた御言葉 2014年4月20日)
主の御言葉:
「神への質問と神からの回答」第4部
(わたしたちの神からスーザンに授けられた御言葉 2014年5月4日)
スーザンの質問: 人はどのようにして習慣的な罪を克服することができるでしょうか。
主の回答:
わたしの子どもたちは、このようにしてその罪を克服することができます。彼らはその全てをわたしに明け渡す必要があります。彼らの罪だけでなく、その存在を丸ごと、霊も体も魂もわたしに委ね、わたしの霊が彼らを飲み尽くし、彼らを乗っ取り、彼らを新しくし、彼らの心を石の心から肉の心へと変えるのを許す必要があります。罪を撃退するための他のいかなる手段も結局は挫折に終わります。そしてわたしの許しがなくては、罪の報酬は死なのです。わたしを慕い求めなさい。そうすれば、あなたはわたしを見いだします。多くの人たちがわたしの聖なる霊の力によって、長期に渡る罪からの救いと許しを発見しています。罪からの救いをわたしに求めなさい。
ローマ人への手紙 第12章2節 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
テトスへの手紙 第3章5節 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
ヨハネの手紙 第一 第5章18節 神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
ローマ人への手紙 第8章1節から4節 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
スーザンの質問: 人はどうして神のものでありながら、しかもこの世に生きることができるでしょうか。
主の回答:
どうやって世に生きながら世に属さないかは意味論に関します。あなたは世の一部ですか。世にあるものごと、人が正しいということを選んでいますか。それとも、あなたは人々に混じって世に生きていても、神であるわたしが正しいと述べるところを基準にして決断していますか。この世界に生きていれば、あなたは選択することになります。 あなたには、あなたの周りにいる人たちが選ぶような生き方によってものごとを行うことができるし、あるいは、あなたの神であるわたしに服従した人生を追い求め、わたしの言葉にはっきりと述べられていて、わたしの聖なる霊の導きによって実現されるところのわたしの教えと戒めに従って生きることができるのです。これが世に生きることと世に属することとの違いです。
ヨハネの手紙 第一 第2章16節 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
詩篇 第119章128節 それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます。
ピリピ人への手紙 第2章15節から16節 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
コロサイ人への手紙 第2章8節 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。
スーザンの質問: 人は、どのようにして日常的にあなたのみこころのうちに生きることができるでしょうか。
主の回答:
部分的な服従ではなく、命を丸ごとすっかりわたしの完全な意に委ねること、これがわたしが要求するものです。部分的とは、時々、あるいは個人が正しいと思えることをしようという気になった時を意味します。わたしの意志への完全な服従とは、わたしの敵に背を向け、わたしの道、真理の中に入りたいという飢え渇きであり、心も体も魂も霊も、わたしがあなたの命を所有することを完全に願うこと、完璧な明け渡しのことです。あなたは、わたしがあなたの存在をわたしの霊に導かれるあり方へとすっかり吸収することを信頼して、あなたを義の道に引き入れるためにわたしがふさわしいとみなすとおりにあなたの人生を動かし、あなたの人生のためのわたしの将来の計画にあなたを移し入れ、わたしが適切であると見るとおりにあなたを取り扱う許可をわたしに与えなければなりません。部分的な服従はあなたを二心、混乱、そして最終的にはわたしの意志から外れた歩みに引きいれるでしょう。これが多くの、なまぬるい、迷いだした者たちの歩みです。 わたしの道は、全か無かの公理なのです。あなたは誰に仕えるのか、今日選びなさい。
マタイの福音書 第5章6節 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
ヨハネの黙示録 第3章16節 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
ヤコブの手紙 第1章8節 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
ヤコブの手紙 第4章8節 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
ヨシュア記 第24章15節 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
スーザンの質問: 人はどのようにして本当に信者であるか、または信者でないかを知ることができるでしょうか。
主の回答:
娘よ、悪魔でさえも神がいることを信じています。わたしの子どもたちは、本当に心底からわたしを追い求めなければなりません。わたしは全き信仰心を望んでいます。わたしは完全な服従を望んでいます。 わたしは、危機や困難な時に必要だとみえるときにだけ呼び出されるようなパートタイムのよそよそしい友情ではなく、関係を求めています。わたしの子どもたちの多くはわたしを知りません。彼らは、時折、機械的に礼拝し、教会や礼拝の場所に習慣的に行くから、わたしを知っていると思っています。これは親密な関係を表すものではありません。 夫がその妻と週に一度や二度話をするだけならば、彼は誠実でしょうか。わたしは短期の関係には興味がありません。わたしはあなたの人生において他の何よりも勝っていたいのです。これがわたしの要求することです。もしもあなたがわたしを両親や、結婚相手や子どもたちの下に置くならば、あなたはわたしの王国にふさわしくありません。わたしの言葉がこのことを語っていませんか。まもなく、わたしは完全にわたしに委ねている教会のために戻ってきます。他の人たちはみな後に残されることになります。これらがわたしの条件です。これがわたしの国に入るためにわたしが要求することです。
ルカの福音書 第9章62節 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
ルカの福音書 第14章26節 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
スーザンの質問:
1. 今わたしたちの主に立ち返る人たちは、30年間主に従ってきた人たちとどう比較するでしょうか。
2. 真新しいキリスト信者たちは神に対してどこに立っているでしょうか。
主はそして、神の大きな心を真に示す驚くような答えを私にくださいました。
主の回答:
主は私におっしゃいました。誰かがその命を主に任せ、本当にそのすべてを明け渡し、彼らの罪を悔い改め、彼らの人生において聖霊の満たしを求め、その日から毎日神に向かって近づき続けるならば、彼らは弟子としてのその幼い立場に関わらず、神と正しい関係に立っているのです。
エペソ人への手紙 第5章8節 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
スーザン: しかし、他方で、30年間聖書を学んで主に従ってきた誰かが、それから暗やみへと戻っていくならば、彼らは神へのその30年間の献身に関わらず、失われてしまいます。
ヘブル人への手紙 第6章6節 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
新しいキリスト者は、学びと知識とに欠けてはいても、キリストに完全に服従し、キリストの血をもって救いを受けるなら、新しくされ、神の目に義とみなされます。これは、新しい改宗者がキリストを彼らの救い主として選んだとき、御父のみこころのうちに入ることと、日々聖霊に満たされることを「完璧に」選んだからです。そして、個人が一度、そう選んだために御父のみこころのうちに踏み入れるなら、聖霊がその人を狭い道に導きいれます。それは、その個人が、今や神の「見張り」にあるからで、そしてキリストがその人の永遠の結末に関する創始者であり完成者であるからです。主を褒めたたえます。キリストのくびきは負いやすいのです。
マタイの福音書 第11章29節 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
*聖句の引用はすべて新改訳聖書(聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会) によります。
Tag der Veröffentlichung: 25.04.2016
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